週刊金曜日 2001/8/24 号

性と人権
週刊金曜日6月15日号「シリーズ個に生きる5」の表現をめぐって

 本誌370号(七月六日)の「金曜日から」でご報告したように、367号(六月一五日)の「シリーズ個に生きる5 東郷健」のタイトルに「伝説のオカマ」という表現を使ったことで抗議を受けています。
 どのような理由による抗議なのか、編集部はなぜこのタイトルをつけ、抗議にどう対応したのか……。それを検証することによって、性と人権、そして表現の問題を考えてみました。

私たちが声をあげたわけ 伊藤悟・簗瀬竜太

 「伝説のオカマ」というタイトルの何がどう問題なのか。抗議を寄せた「すこたん企画」に解説してもらう。

 まず初めに述べておきたいのは、私たちは、東郷健さんの生き方について異議を唱えているのではない、ということです。東郷さんは、私たちの大先輩であり、同性が好きだという自分に対して肯定的に生きた先達として尊敬しています。また、ただ「オカマ」という言葉を使わなければそれでいいのだ、という立場にも立ちません。
 私たちが問題にしたのは、次の三点です。

(1)本誌367号(二〇〇一年六月一五日)「シリーズ 個に生きる5 東郷健」(以下、「個に生きる」)のタイトルに「伝説のオカマ」を使う必要があったのか。

(2)「個に生きる」が掲載された号の発売2週間前(五月三〇日)、私たちは、『週刊金曜日』編集部の勉強会に講師として招かれ、当事者が「オカマ」という言葉を使うことと、非当事者(特に影響力の大きいマスコミ)が「オカマ」という言葉を使うこととは、似て非なることであると伝えた。その時、原稿もタイトルもほぼ決まっていたにもかかわらず、全く質問が出されなかった。それなのに、突然、上記タイトルが掲載されたこと。

(3)当該原稿の中の筆者の「オカマ」ということばの解説が間違っていること。
 それぞれについて詳しく述べたいと思います。話をわかりやすくするために、(3)から説明します。なお、「すこたん企画」は、同性愛に関する正確な情報を発信している当事者団体です。

メディアが「オカマ」という言葉を使うとき

 「個に生きる」において、「オカマ」という言葉について、「“オカマ”は“カマをほる”といった使われ方をするように、ことさらアナル・セックスを強調する言葉だと、不快感を覚えるゲイがいる」という解説がなされています。この説明は極めて不十分で、このような主張をしているゲイは現在ほとんどいないばかりではなく、「オカマ」という言葉のはたしている社会的な機能が全く見えてきません。
 今年の六月、『あっぱれさんま大先生』という明石家さんまと小学生がやりとりをする番組(フジテレビ系)で、男の子が好きだという男の子が、知恵のあるおじいさん「海千山仙人」を訪ねて質問をするというシーンがありました。「どうして男は男らしくしなければいけないのですか」と問う男の子に仙人は、「そりゃ、男は男だもの」としか答えません。続けて「男が男を好きになることのはいけないことですか」と尋ねると、仙人は、ちょっとあきれた顔をして「男が男を好きになったらダメだよ、それはオカマだもの」と答えたのです。
 吉本興業のタレントの藤井隆も、人気のきっかけは、「オカマ」がらみのギャグでした。たとえば、「あんた、オカマですか」と訊かれた藤井隆が「失礼な」と怒るので、訊いた人が謝りながら「じゃあ何なんですか」というと、「オカマじゃありません、ホモで〜〜〜す!」とオチをつけます。すると会場から(そしてそのテレビを見ているお茶の間からも)どっと笑いが起きるのです。
 こうした形で、メディアが、人を軽蔑しからかう言葉として「オカマ」「ホモ」を使っていることは明らかです。テレビのお笑い・バラエティ番組では、毎日、それもゴールデンタイムに、簡単に笑いをとれる「素材」として使われています。男性コミック誌の、特に格闘技系のマンガにおいても、「弱虫」な男性や「男らしく」ない男性に対して「お前はオカマか」といった言葉が毎週毎号投げつけられています。これだけの情報の洪水の中で、子どもたちは、「オカマ」「ホモ」という言葉の機能を(時には意味もわからず)「学習」して、友だちやクラスメートをからかったりいじめたりするときに使います。知り合いの保育園の先生からも、子どもたちが使っているという報告を受けています。おとなしい男の子などが「やーい、オカマ」とか言われてバカにされたりするのです。

 ここで整理すると、「オカマ」という言葉でバカにされたりいじめを受ける人たちは、多岐にわたっています。「インターセックス」の人たち、(特に男性と勝手に分類された人)「トランスジェンダー・トランスセクシュアル」の人たち(特に男性から女性への)、男性同性愛者(ゲイ)、そしていわゆる「男らしく」ない男性(男ジェンダーからはずれる人)です。異性愛と「〜らしさ」を当然と考えて何も疑問を持たない社会が要請する、男性像からはずれる人たちは、まとめてみんな、「オカマ」としてくくられ、見下されているのです。「オカマ」という言葉は、「男」という枠からはずれた人を傷つける言葉として、明らかに、「人を差別する」という文脈で使われることが多いのです。これは、「男らしさ」に対する縛りが強く、社会が男性中心に構成されているという証明でもあるでしょう。そればかりか、これら本来は分けて考えなければいけない問題(生物学的性/性自認/性的指向/ジェンダー)を、すべてごっちゃにして、セクシュアリティのことを考えるときに混乱させる機能もはたしています。例えば、男性同性愛者は男が好きなんだから女になりたいんだろう、といった具合に。

 歴史的には、「オカマ」という言葉は、「お釜」と書き、語源には諸説ありますが、本来は「尻」とか「肛門性交」を指す言葉です(近代以前においては、男同士で肛門性交をすることは、必ずしも「異常」な性行動とは認識されていませんでした)。それから、「肛門性交」をする人、という意味になり(これは同性間に限りません)、近代に入ってから、言葉の対象が、社会が要請する男性像からはずれる人全てに拡大されていきます。

生かされなかった勉強会

 実は、以上の話のほとんどは、五月三〇日に行われた、『週刊金曜日』編集部で行われた勉強会で私たち(伊藤悟/簗瀬竜太/高橋タイガ)が話したことですので、(2)の論点に移りたいと思います。もともとこの勉強会は、私たち「すこたん企画」が、『週刊金曜日』353号(三月二日)に掲載されたマンガ「rack focus」にはゲイに対して偏見を助長する表現があるのではないか、と抗議したことを受けて行われたものでした(詳しくは、355号【三月一六日】の「金曜日へ」をごらんください)。勉強会では、「セクシュアリティの基礎知識」(言葉の問題・歴史的経緯も含む)、「同性愛者の置かれている状況」(情報が得られないこと・「異性愛のふりをせざるを得ない」同性愛者が孤立させられていること)、「メディアの同性愛に対する否定的な扱い」(実際の新聞やビデオを用いて分析)の三点を中心に話し、メディア関係者の責任の重さと一部の関係者の怠慢さ(学習しようとしない)を訴えました。また、差別された者の「心の傷」を想像することの大切さ、および、本人に意図がなく善意であっても人を傷つけることもあることが強調されました。

 それにしても不思議なのは、この時、「個に生きる」の原稿はほぼ完成しており、「伝説のオカマ」というタイトルも決まっていたのに、担当編集者から何の問題提起も出なかったことです。私たちは、勉強会で、率直な交流を望み、私たちにとっては答えにくい質問にも丁寧に答えていましたから、その件を話題に出すことが困難なはずはありません。「個に生きる」をより活かすためにも、せっかく当事者と交流しているのだから、自分の思ったことをその場で率直に出していただければ、生産的な議論ができたことと確信します。それなのに、いきなり、二週間後に、「伝説のオカマ」というタイトルを付した文が『週刊金曜日』上に掲載されれば、驚くのは当然です。また、私たちが勉強会で編集部の皆さんに伝えた情報がほとんど届いていなかったと感じてもおかしくはないでしょう。この経緯は、私たちにとっては極めて理解しがたいものでした。そして、それで私たちは傷つきました。

タイトルはひとり歩きする

 こうして、私たちの抗議のポイントである(1)にたどり着きます。私たちは、今まで述べて来たように、今回の抗議の過程の中で、東郷さんが「オカマ」という言葉で自認されることに対しては、全くふれていませんし、そうした東郷さんの姿勢に反対もしていません。しかし、そのことと、タイトルに「伝説のオカマ」とつけることとは全く別です。担当の編集者は、「中身を読んで判断して欲しい」と私たちに述べました。
 どうでしょうか。私たちが雑誌を読む時の一般的な行動を考えれば、この言葉が極めて事実・現実に即していないことがわかります。読者は、必ずしも本文を読むとは限りません。見出しだけ眺めて本文は読み飛ばす人もかなり多いはずです。それは、編集者が当然知っていなければならないことです。「だから、表紙や目次には(「オカマ」という言葉は)載せなかった」という反論も伺いましたが、タイトルは、どこに書かれようと、本文と関係なくひとり歩きします。この「オカマ」という文字だけを見て、『週刊金曜日』が使っているのだから使っていいのだ、と考える人が生まれる可能性を否定することはできません。投書の中にも、「オカマ」が差別的文脈でも使われるのを知らなかったという人がいました。これこそが、このタイトルによって、「オカマ」という言葉がはたしている社会的な機能、すなわち、人を見下し軽蔑しいじめるために使われる、という機能を強化することはあっても、なくすことにつながるかどうかを疑わせる証拠になるでしょう。どうか、「伝説の○○」の「○○」のところに、障害者・在日外国人・同和地区出身の人たちなどに関する差別的に使われる言葉を当てはめて考えてみて下さい。それをタイトルにできるでしょうか。

 以上、(1)から(3)までの、私たちの抗議に対して、その掲載に関わった編集担当者からも、編集部からも、いまだに納得のいく回答をいただいていません。それどころか、「差別される」側がその痛みを何度も語っても、「差別している」側にはなかなか通じない、という現実を改めて痛感する場面もありました。私たちは、「オカマ」という言葉で傷ついている当事者が「いる」という事実を「知っていた」にもかかわらず、タイトルに「オカマ」という言葉を使ったこと、本文中の「オカマ」の説明も不十分であったことに対し、編集部の謝罪を求める次第です。