週刊金曜日 2001/8/24 号

セクシュアリティの基礎知識 伊藤悟・簗瀬竜太

 わたしたちはみんな「性」を持っていますが、「性」は想像する以上に複雑で多様です。しかも、無理解や勘違い、想像力の欠如などによって、人を傷つけることがあります。
筆者たちが『週刊金曜日』編集部で行なった勉強会をもとに、「性」の基礎知識をお届けします。

第1章 性的指向について

 人間の数だけ「性」のあり方がある、と言っても過言ではないほど、人間の「性」は複雑で多様です。このことから、それを細かく分類してそのカテゴリーに名前を付けることは無意味だと主張する人たちもいます(しばしば「一人ひとりがマイノリティだ」という言い方で)。しかし、それは理想論です。「性」以外のことも含めて、人間の多様なあり方を優しく受け入れる社会が到来しているなら、自分の「性」のあり方に関して、特定の名前で呼ぶことなく、「私は私だ」と言うだけで暮らしていけるでしょう。 ところが、現在の社会は、ある特定の「性」のあり方だけが「常識」として容認され、それ以外のあり方は、極めて否定的にみなされ、排除されてしまうのです。だとしたら、まず、その、社会が許容する特定の「性」のあり方以外にも、たくさんの「性」のあり方があり、それを困難な中で受け入れて生きている人がいる、ということを知らせていく必要があります。その時に、いつかは使わなくなるのが理想だとしても、社会に認知させていくためには、いったんは、あるラベリング(レズビアン・ゲイなど)を引き受けて、自分が何者であるかを表現する言葉をもって、訴えていかざるを得ません。そうした過程を踏まず、「みんなそれぞれ別々」という一般論を言っているだけでは、社会が許容する特定の「性」のあり方から外れる人たちが被る不利益を解消していくことはできません。

後略

2章 人権問題としての同性愛

 同性愛者の多くが直面している問題は、「人権」の問題です。言い換えれば、自己表現や自己実現の機会を奪われ、その存在を否定されたりすることです。極限の例をあげれば、生命を奪われることです。昨年二月、東京都江東区の公園で、ゲイと見なされた青年が、一〇代と二〇代のグループ三人に、金品を奪われたうえ激しい暴力をふるわれて殺されました。判決・審判は確定していますが、その過程で「ホモ狩り」として、ゲイがターゲットにされたことが明らかになっています。

いちばん傷つく人を基準に

 「人権」侵害の構造はもう少し複雑です。それは、「心の傷」のとらえ方にかかわってきます。例えば、「ゲイやレズビアンって気持ち悪い」と友だちに言われたとき、聞き流していられる当事者もいれば、その発言を聞いただけで自分を否定されたと感じて生きていくエネルギーを失ってしまう人もいます。つまり、「個人差」があるのです。こうした点については、「そんなの気にしないでいけばいいじゃないか」という無責任な意見がしばしば同意され受け入れられてしまいます。当事者からさえ、「差別差別って大げさに騒ぎ過ぎだよ」という意見が出ることもあります(こうした発言は、しばしば多数派である異性愛者によって利用され「差別なんかない」という証明に使われます)。
 ここで、同性愛者だって多様である、ということを、当事者にも非当事者にも強調したいと思います。同じことを言われても、人間は多様であるがゆえに、深く傷つく人も、軽くかわせる人もいるのです。私たちは、そういうとき、最も傷つく人に対する想像力を働かせ、最も傷つく人が「自分らしく」生きられる社会をめざすべきなのではないでしょうか。それは、軽くかわせる人にとっても住みやすい社会になります。その想像力(最も傷つく人を基準にして考える)を、私たちは「人権感覚」と呼びたいと思います。仮に、たったひとりでも、同性愛だというだけで、不利益を被ったり、心を傷つけられたとすれば、そこには「差別」と呼ぶべき現象があり、救済の対象とされるべきなのです。自分の基準だけで他人の思いを(例えば「些細なことだ」と一蹴する)判断することほど排他的かつ傲慢なことはありません。そして「事実」は、同性愛だというだけで、不利益を被ったり、傷つけられたりする人がたくさん存在しているということです。
 この人権侵害の問題は、正確な情報を得られず、同性愛について不安なく話せる相手を持たない同性愛者にとっては、より深刻なものとなります。そうした境遇に置かれている典型的な例として一〇代の同性愛者の場合を説明させて下さい。
 自分が同性に「恋愛感情」あるいは「性欲」を持つことに気づくと同時に、ほとんどの同性愛者は、それを他者に表現することの危険性にも気づきます(多くの場合、思春期になります)。なぜなら、その時までに、特にメディアを通じて、いやというほど、同性を好きになることは、からかい・いじめ・軽蔑の対象になるのだという情報を得てしまっているからです。自分の心の中に沸き起こってくる止めようのない感情そのものが、自分を窮地におとしいれるのです。あるいは、同性が好きだということをわずかでも表明して、周囲の否定的な反応に傷つくという経験を経て、自分の持つ感情の危険性を感じ取る同性愛者もいるかもしれません。この危険から逃れるすべは、自分の中にある、同性が好きだという気持ちを、誰にも表現しない、ということです。異性愛者が、この時期、友だちと、「エッチな」話を通じて、自分の異性愛を肯定していくのとは対照的に、同性指向の子どもたちは、自己表現の機会を奪われる中で、自己否定的になっていかざるを得ないのです。
 しかし、事態はもっときびしいのです。思春期は、自分自身を知り、自分の生き方を模索する時期です。その時、同世代の仲間と一緒に過ごすこと、つまり、人間関係を創る中で自分を形成していくことは極めて重要です。ところが、同性指向の子どもたちは、この「仲間集団」にいるだけで莫大なエネルギーを必要とするのです。というのは、その集団で必然的に出る、恋愛や性の話に対して、ホンネを言えないだけでなく、自分が異性愛であるかのように振る舞わないと、異性愛が当たり前で誰も疑問を持たない集団の構成員として認めてもらえないからです。会話から行動まで、異性愛者として見られるように気を使わねばなりません。それも、友だち集団だけではなく、学校・家庭・地域、どこにいるときでもこれは変わりません。こうした「もうひとりの自分」を創作して生活していくことが、同性指向の子どもたちから、自己表現や自尊心や生きる力を金属疲労のように奪い取っていきます。時には、同性愛者を見下したジョークに唱和して笑わなければなりません。こうした経験に慣れてしまうと、自分がそうさせられているんだという意識も薄れ、ふたつの「自分」の分裂を自覚できなくなったりもします。
 そして、何よりもこうした状況は、同性指向の子どもたちを「孤立」状態におきます。「ありのままの自分でいいんだよ」と言ってくれる人も情報もほとんどなく、同じ同性指向の子が隣にいても(お互いに異性愛のふりをせざるを得ないので)気づかないでいる場合が多く、自分を語り合える人間関係からも疎外されてしまうのです。
 こうした状況は、インターネットの発達や同性愛者たちの新しいグループ・スペースの創造活動などによって、改善されつつあります。そしてこの状況への対応に関して、「個人差」もあります。しかし、こうした形で「自分らしく」生きる途を閉ざされてしまう同性愛者(子どもたちだけではありません)が存在していることもまた事実です。

当事者とメディアが使うのは違う

 最後に、いわゆる「差別語」の問題にふれておきたいと思います。私たちは、(1)人を傷つける可能性が高いとわかっている言葉に関しては、なるべく使わないようにする、(2)どんな言葉であれ、人を傷つけてしまったときにはきちんと謝罪する勇気を持つ、を原則にしています。とりわけ、影響力の大きいメディアは、同じことを表現するときに、傷つく人がいる可能性がより低い言葉を意識的に使うよう心がけるべきです。したがって、「私たちが声をあげたわけ」にも書いたとおり、「オカマ」という言葉をメディアが安易に使うべきではないと考えます。また、「ホモセクシュアル」(「同性愛者」にあたる英語)及び「レズビアン」(女性同性愛者)のそれぞれ略称である「ホモ」「レズ」も同様です。
 とはいえ、ひとつひとつの言葉が社会の中ではたす機能は、ゼロか一〇〇かで決められるほど単純ではありません。たとえば「オカマ」という言葉にしても、どんな場面でも差別的に使われるわけではありません。
 わかりやすい例をあげましょう。ジャッキー・チェンと、クリス・タッカー(アフリカ系アメリカ人男性)が主演の『ラッシュアワー』という映画で、こんなシーンが出てきます。ふたりは刑事(ジャッキー・チェンは香港警察からロスに派遣されたという設定)で、コンビを組んで聞き込み調査に出かけ、アフリカ系男性の刑事の行きつけの店に寄ります。そこはアフリカ系の人が集まるお店なので、刑事役のクリス・タッカーは、店の店員(アフリカ系男性)に「ハーイ、ニガー」と声をかけます。それを見ていたジャッキー・チェンは、「ハーイ、ニガー」が挨拶であると勘違いをし、アフリカ系男性の店員に「ハーイ、ニガー」と言ってしまうのです。当然のように店員はキレて、それを見ていた他の客(やはりアフリカ系)もキレて、ジャッキー・チェンとアフリカ系男性たちの間で乱闘シーンが繰り広げられます。なぜこのようなことになったのでしょうか? 確かに「ニガー」は差別語ですが、同じ立場にあるマイノリティ同士で使うのであれば問題にはならない場合もあるのです。なぜなら、両者の力関係は同じですから。しかし、当事者でない人間が使えば、差別する言葉として機能します。
 同性愛者でも、お互いの会話の中で、あるいは異性愛者に対しても、「ホモ」「レズ」「オカマ」を使う人はけっこういます。しかし、それだけをとらえて、マスコミの人間が、同じ言葉を使っていいということにはなりません。力関係に差があれば、とりわけ、大勢の人が見るメディアで表現する時には、その言葉の使用に傷つく人が必ず存在します。当事者が「差別語」を使っているからといって、自分も使っていいのだというのは、安易な考えです。力関係が違う人、立場の違う人が使えば、それは別の意味を持つことになるのです(この映画『ラッシュアワー』を例にした差別語についての問題は、『週刊金曜日』編集部の勉強会でもお話しさせていただきました)。
 時として、「善意」であれば、「差別語」を使ったり、相手を傷つけるような言動をしても「免罪」されると考えている人がいます。しかし、どんな立場にいても、自分の言動が人を傷つける可能性がゼロになることはありません。「そんなにうるさく言うのだったら、何も表現できない」と開き直り、結果的に自分自身の差別に対する姿勢を問い直すことを放棄するのではなく、傷つけたらきちんと謝り、勉強し直すという態度を持つことこそが、人権感覚ある姿勢だと言えるのではないでしょうか。
 「動くゲイとレズビアンの会」(NPO法人アカー)が、同性愛者であることを理由に青年の家の宿泊利用を拒否されて東京都を訴えた裁判の高裁判決(一九九七年確定=東京都敗訴)でも、「行政当局としては、少数者である同性愛者を視野に入れたきめの細かい配慮が必要で、同性愛者の権利・利益を考えなければならない。そうした点に無関心であったり、知識がないということは、公権力の行使者として、当時も今も許されることではない」と述べられている通り、特に公的責任を持つメディアは少数派の状況に対して敏感になるべきです。
 本年五月二五日、セクシュアル・マイノリティの団体の粘り強い働きかけもあって、法務省の「人権擁護推進審議会」の最終答申案において、同性愛者等に対する人権侵害(雇用差別・嫌がらせ・差別表現等)が認知され、性的指向による差別が救済の対象となりました。さらに注が付き、これがセクシュアル・マイノリティ全体にも適用されると明記されました。同性愛者の抱える問題が人権問題であることは、国際社会はもちろん、日本でも本流になりつつあるのです。