週刊金曜日 2001/8/24 号

表現の自由と差別の再生産 落合恵子

 今回のことを『週刊金曜日』の読者でもあるフェミニストの友人と電話で話した。問題になった号だけ彼女は読んでいなかったのだが、わたしの説明を聞いて彼女は言った。
 「エッ? 『オカマ』って差別的な言葉なの?」
 今度はわたしが「エッ?」と絶句する番だった。女性に関する「言葉とその歴史」に関してはかなり敏感であるはずのフェミニストの中にも、そういう捉え方があったのだとショックだった。
 彼女は敬愛し共感する別のフェミニストの名前をあげて言った。
 「だって☆☆さんも、その言葉を使っていたわよ」
 今号の特集、伊藤悟さんと簗瀬竜太さんの文章を読んで思い出したのは、友人のその説明だった。
 「☆☆さんも、使っていたから」
 日常生活の中で、わたしたちはしばしば、こういったことを体験する。前掲の友人は、彼女が共感するフェミニストが「オカマ」という言葉を使っているから、「それは差別語ではない」と思っていたのだという。少々イノセント過ぎるかと思うが、そう思ったからといって、わたしが彼女の友人であることを即「やめた」ということにはならないだろう。まず、話し合うことからはじめたい。
 しかし問題は、信頼する人が使っているから問題なし、と彼女が思ったのと同じようなことが、東郷健さんの記事タイトルそのものを通して生じる可能性があるのではないかということだ。
 「『週刊金曜日』がタイトルに使っていたんだから」
 まだまだ力及ばずのところはあるのだろうが、『週刊金曜日』には前掲の友人にとっての「☆☆さん」と同種の、いや、それ以上の影響力はあるはずだ。伊藤さんや簗瀬さんが危惧することの一つは、そこにあるのだろうか。わたし自身は、「オカマ」という言葉は使わない。差別的に使われた歴史と、今もまだそういう事実があるからだ。そういった意味では、言葉は無実ではない。
 「大切なのは文脈であって、差別用語そのものではない」という説には一部頷きつつ、ちょっと待てよ、とも思う。文脈もまた、一つ一つの言葉から成立するものであり、どんな言葉を選択するかは、文脈の大事な要素であるからだ。
 また、今回のようなことで、なぜ「表現の自由の放棄」という発想が出てくるのか、わたしにはわからない。抗議を受けたら(あるいは、受けそうだと予想したとき)引っ込めて「書かない」なら、表現の自由の放棄だろう。むろん「表現の自由」はかけがえのないものだが、「誰からの抗議であり、その抗議の内容は何を意味するか」を立ち止まり深く考え、必要な場合は新しく問題提起をすること。それはメディアにとってきわめて「主体的」行為であり、「抗議の声に編集権を明渡す」ことでは決してない。むしろ、そういった真摯な姿勢こそが「表現の自由」の基本ではないか。彼らの異議申し立てを受け入れることを「表現の自由の放棄」と考えることは、権力者にとって不都合な情報に蓋をするために「個人情報保護法」を成立させようとしている人々と同じ「文脈」を招き入れることにならないかと、不安になる。
 東郷さんがご自分のことを「オカマ」と呼ぶことは、彼が彼を生きてきた日々の中で「再獲得」した価値観から生まれたものだろう。それを否定する権利は誰にもない。しかしメディアが、それを使うことによって再生産・再助長される差別意識を伊藤さんと簗瀬さんは指摘されているのだろう。「表現の自由」と重なるところで「言葉狩り」という「言葉」がある。社会的歴史的に差別されてきた側の異議申し立てに蓋をしようとするとき、昨今必ず使われるのが「言葉狩り」という印籠だ。「言葉狩り」は問題だが、意味ある異議申し立てに対してまで「言葉狩り」だと貶めること自体、わたしにはもう一つの「言葉狩り」に思える。
 ひとつの社会において、存在そのものを「狩りとられてきた」側の異議申し立てを通して、まずはわたしたちひとりひとりが自分に問いかけることの中にこそ、いまや風前の灯火となりつつある「表現の自由」を生還させる道があるのではないだろうか。
 余談ながらわたしは、タイトルの「愛欲と反逆……」の「愛欲」という言葉にも正直引っかかった。
 「こんな風になるになら、何も書けない、何も表現できない」のではない。それでもわたしたちは表現し続ける。人を分断し、個人を差別・選別する社会と意識を拓くために。『週刊金曜日』はそういう雑誌であるはずなのだから。