高校への数学 2002年6月号

「なぜ・なんのために」を
 考えられる「人間」に

伊藤悟

 
 

 テレビのバラエティ番組でくり返されている「罰ゲーム」系コーナーを見るのがとても不愉快だ。クイズやゲームに負けると、とても食べられないものを食べさせられるのはいい方で、自分が一番大切にしている想い出の品を壊されてしまうものまである。やらせかどうかは問題ではない。間違いなく、ここから視聴者が学ぶものは、「いじめ」の技と人の心を傷つけても平気で笑っていられる感性だ。

 貧乏や家庭崩壊や恋愛に関するトラブルといったプライバシーを暴露し、結局は「他人事」として笑いをとる番組も耐え難い。要は、弱者や少数者を見下して「受け」を狙うのだ。その中で私たち同性愛者も、軽蔑の対象として「レズ/ホモ疑惑」だの「オカマ仰天発言」などいいように扱われている。

 こうした「人権侵害」を許容する社会をつくってきた一端は、学校が担っている。程度の差こそあれ、学校で子どもたちが自由な雰囲気で発言したり行動するのは未だに不可能に近い。世界で学生・生徒に制服を着せているのが日本ぐらいになってきたことに象徴されるように生活に細かい規制がかけられ、教員から生徒への理不尽な暴力・暴言も後を絶たない。その教員もまた管理の中で育ってきた。「よい子」にあてはまらない、あるいは個性的な子どもたちは、いじめられるか「不登校」で自己表現するしかなくなっている。

 数学も例外ではない。次々と新しい概念が天下り的に降りて来て、それをただ覚えて問題を解けと強制される。全ての概念が生まれるのには社会的・歴史的背景があることは無視される。0の発見にもドラマがあり、微積分は戦争における砲弾の軌道計算のために研究が促進された。

 最低でも、ある概念が、なぜ・何のために生み出され、それが(最初は数学者の美意識の追求であれ、結果的に)その後の数学の展開にどう役立つのか、体系的に説明したら、もっと数学は楽しくなり、学習意欲がわき、素朴な疑問が圧殺されること(それがいちばん感性を歪める)もなくなるだろう。

 例えば、高校で習うラジアンは、「゜(度)」という単位のままでは関数などの他の概念と結びつけにくいので、角度を「数字」として表現するために生まれた、と本で読んだ時、なぜこんな面倒くさい定義をするんだろうと思っていた気持ちが氷解して快感だったことがある。

 数学も含め、上意下達に従順に従う人間はもう必要ない。テレビに洗脳されないくらい自立的で、多様性に対して柔軟な「個」が今こそ求められている。

(いとう さとる 作家/法政大学講師)