「孤立は恐れないが連帯を求める」 佐高信
いわゆる全共闘運動の中で使われた「連帯を求めて孤立を恐れず」というスローガンがある。しかし、私はこれにずっと違和感を持ってきた。そこにある種のヒロイズムの臭気を感ずるからである。自己陶酔的それは、必要な連帯を形成しない。
「個に生きる、東郷健」が載っている号を手にして私は、
「えっ、これが『週刊金曜日』に載るのか」と思った。読後も違和感が消えなかった。
それは、このレポート全体に、自己陶酔的ヒロイズムの臭気を感じたからだと思う。
「連帯を求めて孤立を恐れず」は、容易に「孤立を恐れず」だけの独りよがりになってしまう。
だから、カッコはよくなくても「孤立は恐れないが連帯を求める」でなければならないのである。
「個」が開かれたそれか、閉じられたそれかが問題になる。連帯の道を閉ざした「個」は、個でなく「孤」である。東郷氏が、閉ざされた孤だと決めつけるつもりはないが、書き方は残念ながら、連帯の方向に開かれていない。
そこに「すこたん企画」からの批判を招く原因があったのだろう。もちろん、運動にはさまざまの方法があっていい。しかし、すくなくともそこに「他者」を受け入れる余地が残されていなければ、運動は枯死してしまうのではないだろうか。
ここでは「オカマ」という言葉が使われている。あえて使って、差別を撃つということらしいが、しかし、たとえば部落差別に置き換えて、それが「撃つ」ことになるだろうか。
また、アメリカ人が日本人差別に使った「ジャップ」をあえて使って、日本人差別を撃つなどということは私には考えられない。
私が本誌の編集委員になった直後、小沢一郎は往来をフリチンで歩いているような政治家だとし、“小沢フリチンスキー”と題した批判文を書いた。
ところが、当時、打っていた『朝日新聞』と『毎日新聞』の広告のうち、『朝日』で問題となり、フリチンスキーのままでは広告掲載を拒否すると言われた。それで、たしか、「小沢一郎の暴力」とかになったのだが、『毎日』にはそのまま載った。
これを例に、私は『朝日』のお上品主義では権力を打てないと批判してきたのだが、「伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる」が拒否されたと仮定して、私はそれに抗議しようとは思わない。
フリチンスキーは権力を撃っている。あるいは、撃とうとしている。しかし、「オカマ」は権力者を撃つコトバではない。むしろ、同性愛者を撃ち、彼らを傷つけた。
私は、メディアでも個人でも、過ちをおかさないものはないと思う。神ならぬ身は過つ。問題は、過った時、どうするかであり、過ちからどう学ぶかである。
過つことを恐れるのではなく、過ちから学ばないことをこそ、私は恐れる。
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