私が言える二、三のこと 筑紫哲也
全ての言語表現は他者を傷つける危険をはらんでいる。表現者が悪意を持っていたか、いなかったかは関係ない。「よかれ」と思って言ったことすら、人を傷つけることがある。それに臆するようだったら、ものを言ったり、書くのはやめたほうがよい。しかし、表現したければそういう危険があることに無神経であってはならない。
今回の場合も、経過を見る限り編集部も担当者も決していい加減な態度で“うっかりミス”をしたのではなさそうだ。だが、結果としては他者を傷つけてしまった。「触らぬ神に祟りなし」を決め込んでおれば、こういうことは起きない。そうやって差別や差別用語をめぐる問題はタブー化し、隠顕な形でこの社会と人々の意識の底に沈殿している。
そうであってはならない、という意気込みと志を持ってこの雑誌は創られた。編集にいま携わっている人たちの思いも同じだろう。
危険領域に踏み込むことが宿命づけれている仕事のなかで、今回は地雷を踏んでしまった。
そのことを咎めたり、高みに立って調戒をたれる資格も気持ちも私にはない。
一二年前、私自身が食肉処理、ひいては被差別部落問題につながることで地雷を踏んだときはもっと不用意だったからである。
ただ、その経緯からいわゆる差別用語についていえることは二、三ある。
(1)発言、表現の本人にどんな意図があったかどうかは、問題の本質とあまり関係がない。
(2)相手がいやだと思ったり、傷つく表現は使わない方がよい。
(3)当人たちがそういう表現を自ら用いるから、こちらも同じように使っていいと思ってはならない。
(4)差別される側にも、そのことできたえられた“比較強者”と、そうでない人たちがいることに留意することが大切。「足を踏まれた人の痛みは、踏んだ人にはわからない」という。だが、踏んだ側に想像力があり、その意志があれば、痛みはわからずとも、その気持ちを理解することは不可能ではない。
そこに近付くためには、相手との議論、話し合いを避けないことだ。それを重ねているうちにわかってくるのは、他ならぬ「言語の限界」だろう。「話せばわかる」ではなくて、言語や論理だけではわかりきれない領域がこの世界にはあることに気付く。言語とは表現のごく一部に過ぎないことを思い知る。
当事者同士がそれらのことについて共通の認識に達することができてかろうじて、「理解」らしきものが生まれてくるのではないか。そのためにより多くの努力が求められるのは、表現者の側だろう。しかし、その結果、得られるものが多いのも、より汗をかいたものである。「一件落着」などは考えず、労と手間ひまをいとわず、とことんやって下さい。
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