私は、発売日にキングギドラの『UNSTOPPABLE』を手にし、『ドライブバイ』の歌詞を見たところで、立ちすくみしばらく動けなかった。かつてここまでレズビアン/ゲイをおとしめる歌詞が発売されたことがあっただろうか? 30年以上ヒット曲を、R&Bやヒップホップを愛し続けてきた人間としてもこんな音楽に出会うことはショックだった。自分が主宰する「すこたん企画」(性に関する正確な情報を発信する団体)のサイト(https://sukotan.jp/)に感想を載せる。数日で、何十通という当事者からの反応があり、それも100%歌詞が不愉快だというものだった。学校でこの歌詞が話題となり「やっぱりホモってうぜーよな」と盛り上がってつらかったというゲイの高校生のメールもあった。これは何か行動しなくては、とスタッフがデフスターレコーズ(のちにソニー・エンタテインメント)などに抗議して今回の展開となった。抗議や意見のメールをソニーなどに送ったゲイ/レズビアンは、推定数百人に上ると見られる。そのこと自体が歌詞の問題性を象徴している。
私たちは、該当CDの回収だけを求めたわけではないが、回収は当然だと思っている。この歌詞がレコード店やテレビ・ラジオで流れた時に、高校生の例のように、アーティスト・制作者の意図を離れてひとり歩きし、レズビアン/ゲイに対して、見下してもかまわない、ひいては存在そのものを否定する、というメッセージを発してしまうことは確実だからだ。実際に2000年には、東京都江東区の公園でゲイだと見なされた青年が、金品を奪われたうえ撲殺されるという事件も起きている。歌詞にある「奴の命奪ってもいいか」を「あくまで歌詞として」聞くということは心情的に不可能なのである。「僕も、高校でいろいろゲイである事を悩んでた時期に、こんな曲出てたらたぶん自殺してたと思います」というメールもあった。ただ、私たちは、音楽文化のあり方まで含めて、ソニーやキングギドラと「対話」をし、レズビアン/ゲイのおかれている状況への理解を深めてほしかった。
キングギドラが「悪意はなかった」としているのに、私は懐疑的である。『ドライブバイ』は、「ニセモノラッパー」を攻撃したものだとされているが、だとしたら、少なくとも「ニセモノラッパー」への敵意はあるのではないか。そして、価値の低いもの=軽蔑すべきもの、と見ているその「ニセモノラッパー」を攻撃するために「ホモ野郎」と言っているのであれば、「ホモ野郎」に対しても、無意識的に見下してきたという発想があるのではないか。表現者であるならば、自分の表現に対して、常に「誰かを傷つけるかもしれない」と考えておく(誰にでも「無知」はある)責任があるはずだ。正面から問題に向きあい潔く謝れる人間こそが「カッコいい」。そこから新しい交流も生まれる。
キングギドラファンから、「ラジオで謝ったではないか(それを調べて聞く義務がある)」というメールや電話をたくさん受けた。しかし、これは話が逆であって、「ラジオでコメントするから聞いてほしい」と私たちに連絡してくるのが「仁義」というものである。それに、ラジオで謝れるならなぜ公式に発言できないのか。私たちは、公式サイト等で、キングギドラ自身の意見を聞きたかったが、ついに果たされなかった。
また「趣味で同性愛やってるんじゃないか(だからやめればいいのに)」と言う人もいた。これも、『同性愛がわかる本』(伊藤悟/明石書店)などを読んでもらうしかないが、自分の意志で性的指向(同性が好きか異性が好きかの指標)を変更するのはほとんど不可能で、一部のファンから届いた乱暴なメール「ホモ死ね」「気持ちわりーんだよ」そのままに、理解を拒否した言葉を、社会そして個人の歴史の中で、くり返し聞かされ、自信と自尊心を奪われてきた。
「アメリカではこんな歌詞、当たり前だ」という声もあった。だが、ラッパー同士の抗争で、Notorious
B.I.G.や2 Pac が殺されてしまうという状況を手放しで肯定していいのだろうか。個人的には、ヒップホップは、その歴史を考えても、「反権力」が似合うと思っている。レスビアン/ゲイは、「同性が好きだ」と言うと、かなりの確率で周囲からからかい・いじめを受け、時には職場や学校や家庭にもいられなくなる中で、異性が好きなふりをせざるを得ないという抑圧(人は異性を好きになるものだという「世間の常識」は誰も疑わない)を受けている。そうした立場にあるものを気遣い、権力を笠に着て威張っている者たちを「撃つ」「正義の味方」をこそ、ヒップホッパーたちに求めたい。国際的にも「共生」がキーワードになっている。多様な人間とつながれる自己表現こそ心地よい。
文=伊藤 悟
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