日本政府に難民認定を求めているイラン人ゲイ、シェイダさんの在留権裁判。ゲイとして難民認定を求めるケースは、確認されている限り、日本で初めてであり、試行錯誤の歩みを続けています。
その中で、これまで中心的に取り組んできたのが、同性愛者の難民を認めた欧米諸国などの決定や判決を日本語に訳し、証拠として提出する試みです。よく「同性愛者の難民を認めると、同性愛者でない人間が偽って日本に乗り込んでくる。これは人権だけの問題ではない」という人がいますが、多くの同性愛者を難民として受け入れている欧米諸国でも、異性愛者の外国人が「同性愛者」を「偽装」するといった問題は持ち上がったことすらなく、このような心配は「杞憂」であるといえます。
しかし、欧米諸国でも、同性愛者が難民として認められたのはここ20年ほどのことです。一番最初に同性愛者を難民として認めたのはドイツで、1983年のヴィースバーデン(フランクフルト付近の町)行政裁判所が、イラン人の難民申請者を難民と認める画期的な判決を出し、これが同性愛者を難民として認める大きなきっかけとなりました。
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1979年、1人のイラン人男性が、在住先のドイツからイランへ帰国しました。イランは折しも、革命の真っ最中であり、皇帝がアメリカに亡命し、ホメイニー師が帰国したばかりでした。
しかし男性はほどなくして、再びドイツに戻り、難民認定を申請します。その理由は、イラン革命後成立した体制が、イスラーム法の遵守を根本とするイスラーム原理主義体制だったからです。男性は、自分がこの体制のもとで厳しく処罰されるのではないかと恐れました。その理由は、彼が同性愛者だったからです。
ところが、ドイツの連邦難民事務所は、彼が同性愛者でないことをイラン政府は知らないこと、イラン政府が彼の出入国を妨害していないことを理由に、彼はこれまで迫害に直面したことがなく、今後も同性愛者であることをイラン当局に対して隠し通せば、イランで暮らすことに何の危険もない、として難民認定を却下しました。男性はこの決定を不当として、ヴィースバーデンの行政裁判所に提訴したのです。同性愛者を難民と認めた、世界で最初の判決は、この男性に対して1983年に言い渡されました。
ヴィースバーデン行政裁判所はまず、イランにおいて同性愛者が処刑される可能性があり、実際に処刑されていることに論争の余地はない、と述べたうえ、原告の、自分が同性愛者であるという訴えを事実として認定しました。その上で裁判所は、原告が同性愛者であることを隠していれば、イランで安全に生活できるという当局の主張を否定し、以下のように指摘しました。
「同性愛の発生理由について理論的な論争は存在するものの、同性愛が自分の意志によってスイッチを入れたり切ったり出来るような、単なる嗜好
preference の一つではないというところには、一般的な合意が存在する。」
「裁判所は、同性愛者の亡命申請者に対して、隠れてひっそりと生活することによって、迫害を避けることが出来るなどということは、宗教的信念を否定したり隠したりすることや、皮膚の色を変える努力をすることを勧めることと同じであり、受け入れられるものではない」
その上で裁判所は、同性愛者が難民条約の「特定の社会的集団」にあたると明白に述べた上で、ある集団が「特定の社会的集団」にあたるかどうかの判断基準は、その集団が会員制度を持っていたり、お互いに知り合いであるというところにではなく、主流社会の側がその集団を「受け入れることのできない集団」として扱っているかどうかというところにある、と述べ、「特定の社会的集団」の解釈に新機軸を打ち立てたのです。
先にも述べたように、この判決は同性愛者を難民として認めた世界で最初の判決です。その後、同性愛者を難民と認める数多くの決定や判決が、各国で出されましたが、この判決は、一番最初の判決であるにも関わらず、その水準はその後出された多くの決定や判決以上のものがあり、まさに最初にして最良の判決であるということができます。この判決は、カナダやニュージーランドでその後出された決定などでも引用されるとともに、難民条約上の難民の定義についても新たな理論的水準を打ち出したものとして、法学的にも高い評価を得ています。
日本の裁判所も、この判決に学び、是非ともシェイダさんを難民として認めてほしいと思います。
※参照 Maryellen Fullerton, Persecution due
to Membership in a Particular Social Group: Jurisprudence in the
Federal Republic of Germany, Georgetown Immigration Law Journal
[Vol.4:38]
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