上にふれたとおり、6月17日の第1回口頭弁論で、控訴審が本格的に始まります。
この裁判で争われているのは、シェイダさんという一人のイラン人の同性愛者が、難民という地位を得て、日本という国で生きていく権利です。
もちろん、この裁判は、シェイダさんという一人の人間を通じて、同性愛者の権利や難民制度のあり方を問うものです。しかし、これらの付加価値以前に、この裁判はシェイダさんの裁判であり、今後の人生に向けてのシェイダさんの意思や展望が何より尊重されるべきです。シェイダさん裁判を考えるとき、私たちは、「同性愛者の権利を問う裁判」「日本の難民制度を問う裁判」と飛躍して考えがちですが、第2審の開始に当たって、私たちは、この裁判のオーナーシップがあくまでシェイダさんにあることをもう一度考える必要があります。
■第1審判決:すでに結論は出た
2月25日の第1審判決。まる4年近い年月をかけて、裁判官がシェイダさんに、そして私たちにどんな言葉を投げつけたのか、私たちは忘れるわけには行きません。彼らは、イランで同性愛者が死刑に処されている事実を認めた上で、隠れていれば危険はないと断じ、さらには同性愛者のカミングアウトする権利を「性表現」と宣ったあげく、「原告が望む『性表現』が許されないからといって、迫害には当たらない」と言い放ったのです。彼らが4年間かけて作り上げた私たちへのメッセージは、同性愛者の生存の権利への、容赦のない「ノー」でした。
「勝つ闘いをする」と気負い込んで第1審を闘ってきたサポーターにとって(実際にシェイダさんと私たちは第1審において「勝つ闘い」を貫徹したと考えています)、この判決は絶望的なものでした。闘いの第2・第3のステージ、延々たる長期戦を、飢えたツバメの仔のように、正義を求めてさえずり続けなければならないのだろうか……。
一方、シェイダさんは判決後の記者会見に向けて、きわめてシンプルなコメントを用意していました。
「人権が認められていないこの国で、私が裁判で勝訴判決を得ることが出来るとは、そもそも考えていませんでした。ですから、敗訴判決を受けたからといって、私は何ら失望していません。今後は日本ではなく、難民の人権を守る国を探したいと思います。」
ここに込められたメッセージは明確です。拒絶には拒絶をもってこたえること。
■生きて新しい大地を踏むためのプロセスとしての第2審
第1審判決をふまえて、私たちは次のことを認めなければならないと思います。
まず、シェイダさん裁判の決着は、第1審判決と、シェイダさんのコメントにおいてすでについているということ。一つの拒絶に対して、もう一つの拒絶がすでに表明されたのです。
もう一つ、<日本における>同性愛者の権利、難民の権利、まともな裁判を受ける権利は、国民、有権者としてこの国を構成している私たちの問題でありこそすれ、シェイダさんの問題ではないのだ、ということ。
この二つを踏まえて、私たちは、シェイダさん裁判の第2審について、その戦略を第1審でのやり方と根底的に違ったものにしなければならないと考えています。
私たちは、第2審を、「シェイダさんが生き延びて、新しい大地を踏む上で必要な一つのプロセス」として位置づけることにしました。
もちろん、第2審で勝てるに越したことはありません。しかし、「裁判に勝つ」ことを自己目的化する段階はすでに終わりました。シェイダさん裁判は、勝敗を云々する時期を終え、すでに、彼の人生の次のステージへのプロセスへと化したのです。その「プロセス」を支援すること、彼の歩みが次のステージに到達するまでの間、拘束、収容といった権力の暴力をなんとしても阻止し、彼の生をつなぐこと。それが、第2審における私たちのコンセプトになるでしょう。
このコンセプトの変化を踏まえて、第2審の取り組みは、1審よりも短く、地味なものになるだろうと思われます。しかしそのことは、第2審への取り組みの重要性を減じるものではありません。シェイダさんが生き延びて新天地に足を踏み入れる「プロセス」を支援する……この取り組みを共に歩もうという方を、チームSはつねに求めています。 |