隔月刊 メンズネットワーク
02年8月号(65号)

ジェンダーバイアスと
異性愛絶対主義

伊藤悟

 レズビアン/ゲイが「自分らしく」生きられるようになるには、「世間の常識」が変わっていくことが不可欠である。つまり、異性を好きになり、結婚して子どもをもうけ、永遠の「家族」だんらんを実現することに最良の価値がおかれているかぎり、同性同士の恋愛、と言っただけで、「排除」または「嫌悪」の対象になってしまうからだ。例えば、JRのフリーキップのうちふたり用のものには、「男女2名様が同一行程でご旅行される場合のみご利用いただけます……」となっているものが多い。「あの人を誘って出かけませんか/恋人と行く、夫婦で行く、おトクな○○」などと宣伝にある。もっと気前よくふたりで行くなら使えるキップであってもいいのではないか、なんてことには誰も気づかない。

 そして、この「世間の常識」に「女(男)らしさ」が含まれていることはいうまでもない。なぜなら、「らしさ」の重要な要素として、「異性を愛すること」が含まれており、その上、異性間の恋愛における行動に最もその「らしさ」を発揮できる(させられる?)場面が用意されているからだ。講師をしている大学の大学生たちに尋ねても、恋愛関係の中で、「女(男)らしくない」と相手を責めてしまうことが頻繁にあるという。例えば、優柔不断な男性は、デートでどこのレストランに入るか、そこで何を食べるか、といった些細なことで躊躇すると「男らしくない」と嫌われてしまう。生きることの根幹にかかわる場合も多い恋愛という要素から刷り込まれる「らしさ」は、たちまち同性愛を嫌い怯えるきっかけへと転化することになる。異性を前提に世間が準備した「お付き合い」マニュアルを同性同士に適用することなど、想像さえできない(強引に適用するなら「女役」「男役」を勝手に設定して納得するしかない)。したがってありえないしあってはいけないこととなるのだ。

 あいまいな根拠とあいまいな違和感で形成された同性愛恐怖症は、宗教的・政策的な迫害と違った質の抑圧をレズビアン/ゲイにもたらす。とりあえず(あくまで、とりあえずなのだが)「らしさ」の規範にしたがって生活しているフリをすれば、文句を言われないので、異性を愛することをもちろん含めて、自分を「消して」「世間」に合わせて行動するのだ。しかし、それに要するエネルギーは、積もり積もっていくと計り知れないものになっていき、金属疲労のように精神を疲弊させむしばんでいくことがある。その消耗が自分の人格の分裂をもたらすことさえある。

 例えば、日常生活の中で交わされる会話を想像してほしい。人間の「生」の中に「性」が重要な位置を占めていることの反映として、恋愛やセックスや結婚といったテーマは、それが上品にであれ、卑猥にであれ、人々が語りたがり、また語らざるを得ない話題となっている。そして、「世間の常識」にしたがって、それは「異性愛」として語られることになっている。「クラス(職場)の誰が好き?」「どのアイドルがイケてる?」「恋人はいないの?」「セックスした?」「いつ結婚するの?」……こうした質問に同性を想定して答えることは、極めて困難である。自分が同性愛であることを説明せずに、同性(とのこと)を語りだしたら、少なくとも好奇の目、場合によっては軽蔑のまなざしが投げかけられる。このストレスを「軽い」「簡単に乗り越えられる」と自助努力論だけで解決できるだろうか?
 時として質問は、「どうして独身なの?」「好きな子いないなんておかしくない?」「何で結婚しないの?」と相手を責めあげるように畳みかけられる。このおかしさは、「(特定の相手に対しての質問でなく一般的に)どうして結婚するの?」「好きな子いるなんておかしくない?」「何で結婚するの?」と正反対の質問がほとんどの状況で成立しないことを考えるとよくわかる。つまり、実はこの社会では、「自由な」恋愛は幻想に過ぎず、誰にどう恋して、いつ結婚して子供をもうけどんな家庭を築くかまでが、しっかり強制されているのである。それも、その大前提が「異性愛」であるということに誰も気付かずに、である。

 「らしさ」=ジェンダーバイアスと異性愛絶対主義が結合した「世間の常識」体系は、こうしてみると、極めて強固で、この稿の主旨ではないが、資本主義社会に不可欠のものとしてセットされたことがわかる。つまり、男性を「企業戦士」として働かせ、女性を家事と子育てに押し込めることが、近代における経済発展の必要条件だったのだ。
 ところが、まず女性たちがそうした枠からの解放を求めて闘い始め、徐々に社会進出を実現していき、無限な経済発展などないということがバレてしまってからは、その神話もほころびがどんどん見え出しているのである。さらに、同性愛者を始めとする「世間の常識」からはずれるセクシュアル・マイノリティの存在が、カミングアウトを通じ、またさまざまな活動(これは新しいライフスタイルの提示までを含む広義な使い方である)を通じ、可視化されてくると、神話はさらに揺さぶられてくる。

 この時、「世間の常識」体系において、優位に立ち「もうひとつの性」をリードするべく運命づけられている男性の方がより動揺することも間違いない。それを社会の変化と捉えられる思考様式など学習する機会は全くないので、同性愛者に出会ったただけで、その存在を受け入れること=自身の価値観の崩壊、ゆえに同性愛を徹底的に否定する、と過剰反応する男性も多い。決して価値観の「再構成」へとは向かわないのだ。それは、「気持ち悪い」「付き合いたくない」という露骨な言い方で表現されるだけではない。「いろいろな人がいていいでしょう」と言いながら自分の周囲(家庭・職場・地域……)には「いてほしくない」という二重の価値観を作ることで正面から向きあうことを回避する場合もある。

 私たちが講演へ出かけて行って、とんでもない質問を投げかけるのは、7〜8割が男性である。「同性愛者は、この少子化の折から、子どもを作らないなんて反社会的だ」「襲われないように、ゲイの人の区別法を教えてほしい」「あなたが今泣きそうに自分の体験を語っていたけど信じられない、男はそんなことでは泣くはずがない、うそ泣きでしょう!」……。仕事において男にしばしば求められる、理屈をこねられるという資質は、人の感性を曇らせることもあるのだ。特に最後の言葉は、「男らしさ」(泣かない)という常識を土台にしていることで、ジェンダーバイアスと異性愛絶対主義の結びついた典型のような例である。

 したがって、私たち同性愛者は、「らしさ」特に「男らしさ」からの解放を求めていくことを、自分たちの解放の道程に載せないわけには行かない。「男らしさ」が男の視野も行き方の選択の幅もとても狭くしていることを知らせていかなければならない。そこから抜け出ることで新しい「幸福感」に到達できる、そこまで訴えていかなければならない。

 そして、それは、ある程度自己肯定を終えた同性愛者にとっても自己課題となる。「ある程度の自己肯定」というのは、「世間の常識」によって否定され続けてきた、同性を好きになることをまず第1に受け入れないことには、その他に自分を縛っているものへ眼をやる余裕など持てない場合が圧倒的だからである。

 例えば、ゲイ向けのウェブサイトの相談室には、世間が押し付けてくる男性として果たすべき役割に対する苦悩に満ちあふれている。「(世間体または親または出世……のために)異性との結婚をすべきか」「世間並みの生き方ができない私はどうすればいいのか」「周囲のお見合いなどの結婚への圧力や、異性の恋愛対象がいて当然というプレッシャーにどう対応すべきか」「子どもを育てたいけど……」「親に孫の顔を見せてやれないのがつらい」「恋愛したら男役と女役を設定するのか」……。本当にほんの少し読み替えただけで、メンズリブに寄せられる悩みと同じものになってしまうだろう。ゲイが同性愛者であると同時に男性であるならばアタリマエなのだが、ゲイだからこそ、こうした問題がはっきりと見えてきやすい、とも言えよう。

 ここに、ゲイとメンズリブは、見事に同じ課題、「世間の常識」=ジェンダーバイアスと異性愛絶対主義の結合からいかに解き放たれるか、を抱えることになる。そこで連帯して……と高く旗を掲げるのは、再びその虜になってしまうことにもなろう。敵対的はもちろん、過度に論争的になることもなく(それらこそが男ジェンダーだから)、ゆるやかでおおらかに時としてのんきに「協同作業」していけたらと思わずにはいられない。

(伊藤 悟)