■異性愛者の“傲慢”な発想
「人間は異性愛を生きなければならない」という社会的強制力(いや、抑圧と呼ぶべきか)の巨大さに改めて舌を巻いている。
例えば、この前こんな意見を耳にして驚いた。「性同一性障害の人は、本来の心の性に身体を合わせたら、異性を愛せるようになるからいいけど、同性愛はちょっとねぇ……」というのである。この発言は、性同一性障害の人は、異性愛者であり、かつ異性愛者であることが幸福である、という思い込みから成り立っている。念のために言っておけば、「性同一性障害」かどうかの判定基準に、恋愛対象が誰であるかというのは全く入っておらず、自分の身体の性別に違和感・不快感を抱き、反対の性別に対する同一感を持続的に持っているだけで、「性同一性障害」と診断される。だから、実際に性別適合手術を受けて本来の性に戻った(身体の性別を変えた)人には、同性が好きな人もいれば異性が好きな人も両方いる。つまり、ここには、「性同一性障害」の人は異性愛中心の社会に組み込まれることになるのだから、許容してやろう、といった傲慢な発想も嗅ぎ取れるのである。
私とパートナーの簗瀬竜太が主宰する「すこたん企画」のスタッフの何人かが、よく「(けっこうイケメンでカッコいいので)ゲイにしておくのはもったいない」とあちこちで言われる。一瞬、軽い「ほめ言葉」と聞き流してしまいそうだが、では何に「しておけば」いいのか? と問うてみると、この言い方に潜む偏見があぶり出される。これは、明らかに、異性愛者ならば、異性にモテて放っておかれないのに、と言っているのに等しい。「同性にモテて放っておかれない」ことは価値になっていないのだ。「ゲイ」を「在日コリアン」に置き換えるとすぐわかる。「在日コリアンにしておくのはもったいない」から「日本人になりなさい」である。実際、人材育成技術研究所を主宰する辛淑玉さんはこう言われて怒りを覚えた体験を述べられている。
さらに、私たちが講演や研修やイベントに行くと、「ゲイには見えない」「フツーっぽいので安心した」という声を頻繁に聞く。これは、そう思う人たちの頭の中に、一人ひとり個人差はあるだろうが、ゲイに対するイメージがある程度でき上がっていることの証明だ。それも、「一般的」ではない、「世間のジョーシキ」からはずれる、「フツー」ではないイメージとしてでき上がっていることが圧倒的に多い。「気持ち悪い」「きたならしい」といった否定的イメージを伴っている人も過半数を占めるだろう。
レズビアンもゲイも、人の数だけキャラクターがあり、ひとことで、「同性愛者は○○だ」と言えるような共通点はない。「しばしば偏見をもたれる」「差別的な経験をする人が多い」といった状況説明でかろうじてやや一般化できる程度である。先日、深夜「すこたん企画」の事務所に問い合わせをしてきた人から「おわび」のメールをもらったとき、「ゲイは夜更かしの人が多いと思ったもので……」と書かれていてあぜんとした。こうした過剰な一般化は、少数派に対してしばしば行われ、マスメディアあるいは口コミによって、「神話」となって社会に流布していく。「同性愛者は○○だ」という言説のほとんど(特に性格や行動様式の説明については)疑ってかかっていいのではないかと思うくらいである。
■偏見を再生産するメディア
私個人の最近の経験で言えば、数年前、ある経緯があって、講演で自分の体験を思い出して語っている最中に、その時の思いがフィードバックしてきて、泣いてしまったことがあった。だが、聞いていた人の大半は、それを理解してくれたと思われる反応や感想を示してくれたのでホッとしていたら、その数ヶ月後、主催者のある人から、「伊藤さんはうそ泣きをした」という噂を流している男性がいる、と聞いてものすごいショックを受けたことがある。くやしくて、「私が心から流した涙さえ信じてもらえないのか……」と、半年近く、このショックを文字に書くことも口に出して説明することもできなかった。
一期一会の講演が多いので、その男性に直接会って確かめることは不可能なのだが、主催者や周辺の人の話や噂の内容を総合して判断すると、その男性はどうやら、彼の基準では「男がそんなことで泣くというのは信じられない、ならばわざと泣いたのだろう、なぜわざと泣いたのか、きっと同性愛者が大変だということを強調するためだろう」と考えたらしい。他者の感性は自分と異なる、といった基本的な認識(それが人権感覚にもつながる)に欠けるだけではなく、「男は簡単には泣かない」というジェンダーバイアスの強さにも舌を巻く。
さらに数カ月前には、ある県立高校で、日時まで決まっていた生徒向け人権講演会が、校長の独断で中止になった。その理由は、「専門家ではない」「この県で同性愛者の講演などやったことがない」など、簡単に反論できるものだったが、校長は頑として受付けなかった。本音は「同性愛者など呼びたくない」という嫌悪感と事なかれ主義だろう。それにしても、同性愛者だというだで講演を断わられるのは、何としてもくやしく切ない。
同性愛者の存在の可否さえ「議論の対象」となることがある。これも数カ月前、ある専門学校性から「すこたん企画」に電話があり、「同性愛がいいか悪いか」ディベートをやるという。仮に「悪い」と決まったら、私たちは存在すら認められなくなってしまうではないか。議論のトレーニングとしての「ディベート」だと言われるかもしれないが、もしその場に当時者がいたら、針のむしろだ。人によっては、否定的な意見を聞くたびに傷つくことだろう。話はここにとどまらない。この専門学校生は、それで「自分は反対する側に回ったので、同性愛を否定する意見を教えてほしい」と言うのだ。「すこたん企画」の電話番号を知ったということは少なくともどんな団体であるかわかってかけてきたはずである(電話番号は団体説明とかならずいっしょに出している)。その団体に「同性愛を否定する意見」をあっけらかんと尋ねられてしまう軽率さはどこから来るのか。
こうした状況は、いかに社会が異性愛を絶対的基準として形成されているか(その歴史的経緯はここでは述べる紙数がない)、いかに同性愛に対する誤っていて否定的な言説が広まっているか、そして、いかにマスメディアがそれに加担しているかを示すものである。特にテレビというメディアは、同性愛に対する偏見を日夜再生産している。「お笑い」及びバラエティ番組では、同性同士がいちゃいちゃしていたら、「気色悪い」と笑っていいのだ、という「教育」が日夜なされている。スタジオにいる観客が、また効果音としての笑いが、必ず「ホモ(レズ)・オカマネタ」に付随しているからだ。
一例を挙げると、吉本の若手芸人コンビ「品川庄司」の漫才の定番で、こんなやりとりをやっている。辞書はわかりにくいので、勝手に言葉の定義をしていくという流れだ。
品川 相撲取り/庄司 相撲取り?/品川 意味っ/庄司 意味?/品川 強いデブ/庄司 いやっ、ちょっと待ってくださいよ。デブは失礼じゃないですか?/品川 フンドシにチョンマゲという、まるでコントのような格好で男同士肉体と肉体をぶつけ合うという気持ちの悪いスポーツをする人のこと/庄司 気持ち悪いって、日本の国技ですから〜/品川 (相撲取りの)同義語/庄司 同じ意味(の言葉)ですか?/品川 ホモ!(ここで聴衆がドッと大笑いする)……。
■自分を受容できる社会に
知り合いの女性のお孫さん(男の子)が、幼稚園にピンク色の服を着ていっていじめられた時、彼をはやす言葉に「ホモ、ホモ」という言葉があったそうである。このように、幼稚園や保育園においても、「ホモ」「レズ」「オカマ」は人をからかいいじめる言葉としてすでに学習され定着していることが報告されている。その情報源は、別の調査によればほとんどがテレビだ。意味さえおぼろげにつかんでいる。というのは、「男らしく」ない「男の子」に「ホモ」「オカマ」が投げつけられるからである。ここには、同性愛と、性同一性障害を含むトランスジェンダーとが見事に混同され、両者ともにおとしめられていることも読み取れる。
こんな異性愛“強制”社会の中では、同性が好きだなどということを自由に表現することはまだまだ困難である。「すこたん企画」には、インターネットの普及とともに、十代の同性指向の子どもたちからのメールや電話が激増している。同性同士いちゃいちゃしていると「お前らレズ(ホモ)か」と笑われる、平然と「同性を好きだなんてヘンタイだ」と言われる。教員からそうされる例も(いや、その方が)多い。もちろん「いじめ」「仲間外し」にも遭う(もちろん、大人も同様で、結婚プレッシャーも加わって職場・家庭・地域にいられなくなることもある)。したがって、思春期において、同性指向が強い子どもたちは、孤立せざるを得ない。そればかりか、異性愛がアタリマエで誰も疑おうとしない強力な雰囲気の中で、「もうひとりの(異性愛の)自分」を作り出して演技することさえ強いられる。さらに、テレビなどを見て周囲が同性愛を嫌悪し笑うのに付き合って、自分で自分を否定せざるを得ない場面もある。自分を受容できなくては、子どもたちの自尊心は育ちようがない。
国際的には、すでに同性間のパートナーシップの法的保障をする段階まで来ており、日本でも「人権擁護法案」の中に「性的指向による差別の禁止」が明記され、いくつかの都府県の条例にも人権問題と規定されている。だが、そうした情報は、まず子どもたちに届いていない。私たちは、すでに十代のゲイの子どもたちが安心して出会える場の創出(初めて自分以外のゲイに出会えたというゲイも多い)や、電話相談やピア・カウンセリングの常設など、「アタリマエ」「ジョーシキ」への挑戦を続けている。その中で私たち自身の解放も模索しながら。
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