私たち同性愛者の多くは、自分で自己表現することができないでいます。公に自分の思いを発表する場がないばかりではなく、常に、世間に、勝手な、それも否定的なイメージを作られ、さらには、日常生活の中で実際に笑われたり、からかわれたり、無視されたり、軽蔑されてしまう中で、自由に自分のことを話すことが困難な状況におかれているのです。
マスコミについてはくり返しになりますが、ここでも重要なポイントになるので、ひとつ例をあげましょう。数年前、TBS系のあるバラエティー番組の中で、ゲイのカップルを紹介するというコーナーがありました。それを見て、私はとてもびっくりしてしまいました。ゲイのカップルがふたりで手をつないで道を歩いているシーンに切り替わったとたんに、効果音で「笑い」が入っていたんです。会場の人が自然に笑ったのではなくて、笑いをとるために、わざわざ入れたわけです。これは、男どうし、あるいは女どうし、つまり同性が手をつないで歩いているところがあったら笑っていいという、メッセージを、マスコミが日夜発信していることになるわけです。ある調査によれば、ゴールデンアワーだけでも、テレビで一日に三回から四回は同性愛、あるいはニューハーフの人たちを「オカマ」という様な言葉で嘲笑する映像が流されているそうです。
こうした「刷り込み」や「子どもがいてこそ幸せ」という価値観からはみ出るものを認めない世間の「常識」によって、職場や学校などで、自分が同性が好きだと話すことは極めて難しくなります。現実に職場や学校(そして家庭でも)で、笑われたり、陰口をたたかれたり、嫌がらせがあってそこにいられなくなるという例まであります。つまり、同性が好きだということがわかると、いろいろな不利益が生じるために、同性が好きだということを、隠さざるを得ないわけです。隠したくて隠しているわけではなくて、隠さざるを得ない場合が圧倒的に多いのです。
そうするとどんな状況になるでしょうか? 日常生活で、使わなくてもいいエネルギーをたくさん使わなければならなくなります。例えば、周囲の人との雑談ひとつとっても、異性愛が当たり前の会話がされていますから、自分の話したいことを伝えていくどころか、24時間365日、「もうひとりの(=異性愛の)自分」を作って、周囲に話を合わせていかなければなりません。「どんなタイプの異性が好きか」「どのタレントが好みか」といった何気ない質問にも、ぐっとホンネをのどのところで抑えて、(ときにはあらかじめ用意した)「心にもないこと」を答えなければなりません。
さらに、年齢が高くなってくると、「恋人はいないのか」「なんで結婚しないのか」というよけいなおせっかい的つっこみにも対応しなければならなくなり、聞く側が飽きるまで、私たちは答えに悩まされ続けることになります。
こうした、 「もうひとりの自分」を「創作」して演じ続けざるを得ない過程で、自分でも「ほんものの自分」とごっちゃになってきて、
自然にやっているかのように勘違いしてしまうことすらおこります。それをしんどいとすら感じられないくらいに、「仕方ない」とあきらめてしまうか、何も考えずに自動的に反応してしまうようになるわけです。あるいは、そういう自分の「二重性」に対して、罪悪感にさいなまれ、「自分が同性愛者だからいけないんだ」といった形で、自分を責めてしまうことも少なくありません。
自分で自分を否定的にしか見られなくなってしまうわけで(世間が作り出したイメージがそれに追い打ちをかけます)、こんなに残酷なことはありません。
そうした状況の中で、とりわけしんどい場面は、周囲が同性愛を話題にしたときです。多くの場合、「やっぱ、気持ち悪いよねー」とか、「あれだけは許せない」とか否定的な会話になり、ときには、笑いの種にもされます。その場にいるだけでも、自分に対する自信を失っていくのに、そこで、同調せずに、話にのらないでいたり、反論でもしたりしようものなら、たちまち「あなたもレズなんじゃないの?」「お前ホモかよ」と疑われてしまい、以後「怪しい」というレッテルを貼られてしまうかもしれません。ではどうするか? いっしょに笑ったり軽蔑的な言葉を言ったりせざるを得ません。これは、自分で自分を見下し笑い否定することになりますから、自尊心はしぼんでいきますし、卑屈な気持ちで心がおおわれていくことになります。
「もうひとりの自分」を作って生きざるを得ないということは、となりに同性愛者がいてもわからない、ということにもなりますから、同性愛者は、ひとりひとりが分断されて、孤立化させられており、同性愛者どうしの出会いのチャンスも大きく奪われていることになります。それは、自分が同性に魅かれる気持ちを表明し共有する相手が誰もいない、したがって、と自分の同性に魅かれる気持ちを肯定することができないということも意味します(異性愛者は逆に日常生活を通じて十二分に異性を好きになる自分を肯定できます)。別の角度から見ると、
ここに同性愛者がいるんだけれども、全く存在しないかのように、そして、異性愛者であるかのように、あたり前に平然と異性愛の会話が、それを誰もおかしいと思わずに、なされていってしまう、ということになります。
自分の中のかなり大事な部分である、同性を好きになることを周囲に見せないまま生きていくことは大変で、自分らしく生きることもままならないということになります。自分らしく生きていく権利が「人権」の中味なはずですから、同性愛者が、自己表現を奪われ、自分らしく生きていけない、という現実は、「人権」の問題あるいは「差別」の問題だと言っていいでしよう。
「日本には同性愛に対する差別はあまりなく(外国に比べ)寛容なのではないか」という言い方がいまだにされています。しかし、今でもほとんどの同性愛者が自分を周囲から「見えない存在」にせざるを得ない、「みんなが異性愛でなければならない」という強制力がきわめて強い、という状況を「寛容」と表現するのは、あまりにも現実を無視した使い方になるのではないでしょうか。
確かに、98年に起こったマシュー・シェパードさん(21)殺人事件などを見ると、アメリカの同性愛に対するバッシングは、州や地域によっては、すさまじいものがあります。ワイオミング州のゲイの大学生、マシュー・シェパードさんが、ゲイを装ったふたりのヘテロ男性に、バーから誘い出され、車の中で、ゲイであるというだけで暴行され、ピストルの台尻で頭がい骨を粉々に砕かれ、柵に縛りつけられたまま放置されて死んでいたところを発見された、という事件です。これはただアメリカが怖い、という話ではなく、日本では、同性愛者に向かって石を投げようと思っても、石を投げる対象が見えない、だから石を投げられない、というだけなのではないでしょうか。事実、同性愛者が暴行を受けるという事件も起こりはじめています。やはり、きちんと、「人権」の問題だと認識しておく必要があるのではないでしょうか? ときどき、「同性愛の問題っていうのは単なる個人のプライベートな問題なのに、それをわざわざことさらに話すのはおかしいのではないか」と言う方もいます。しかし、
たとえひとりであろうと、同性愛者であるというだけで傷つく人がいれば、これはやっぱり問題だと思います。ましてや、自殺をしかけたり、本当に自殺をしてしまう人も現実にいる。
かなりおおぜいの同性愛者が自分らしく生きられないということは、全く個人的な問題ではないと思います。
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